クリスマス・プレゼント 


 キキィーッという不愉快な音とともに電車が大きく揺らいだかと思うと、右足の甲に激痛が走った。見れば、目の前の女性のヒールが力いっぱい右足を踏んづけている。文句を言おうと顔をあげると、ヒールこそすぐ離れたものの、まるでこちらが痴漢でも働いたかのような険しい目で睨みつけられた。何故自分がそんな目で見られねばならないのか。こっちが被害者のはずだ。しかしここでこの女性に「痴漢!!」だなどと叫ばれたりした日には、こちらが不利なのは間違いない。朝のラッシュ時の電車の中では、若い女性は圧倒的に男たちよりも有利にできているのだ。濡れ衣だとわかればまだマシだが――いや、それだけでも周囲の視線の痛さは想像に難くないのだが――、相手の言うことが真実だととられてしまえば事態はもっと悪化する。連絡が行くとすれば職場だろうが、話がまわりまわってエディのところまで行ったりすれば―――いや、間違いなく行くだろう。わざとらしく首をふって大きな溜息をつかれるか、あるいはにやにやと笑いながら出迎えてくれるかもしれない。どっちにしても願い下げだ。そんなことになるよりは、この足の痛みを我慢した方が余程マシな気がする。しかしこの一瞬の間にそこまで想像が働いてしまう辺り、自分の仕事上の人間関係がどれほどストレスになっているかわかろうと言うものだ。ラッシュというのは、人間が個人として最低限維持するべき領域を、他人に不本意に暴力的に侵害される点において非人間的な環境である―――そんなことを考えてみたところで、一向にこのすし詰めの車内から人が減るわけでもない。諦めて目をつぶり、頭を空にしようと努める。非人間的な環境で人間的なことを考えようとするのが土台間違いなのだ。
  駅に着くたびに、降りる客と乗ってくる客とで渦ができる。その間で揉みくちゃにされているうちに、ようやく目的の駅名のアナウンスが聞こえる。吐き出される乗客に乗り遅れまいとぎゅうぎゅうの乗客のわずかな隙間を縫うようにして扉へと向かう。その際にさっきのOLに睨まれたような気がしたが、もう気にしないことにした。地下鉄の駅の構内には、力いっぱい詰め込まれた電車から解放された乗客たちの力ない溜息が充満しているように思われてならず、息苦しかった。ようやく地上に出て、一息つく。冷たい空気が頭の奥にまで染みとおるような気がした。
 
 朝の赤坂―――それもテレビ局のある駅周辺ではなく、自分が呼び出されたのは韓国系の店が建ち並ぶ一角。夜ともなればそこかしこにネオンの派手な看板が輝き、飛び交う韓国語などで活気がある辺りだが、シャッターの閉まった店ばかりが連なる朝の光のもとでは、祭が終わったあとのような閑散とした空虚な空気だけが漂っていた。人もまばらで、どこか寒々しい。歩き出した時、明かりを落とした店のショーウィンドーに自分の姿が映っているのに気がつき、不意に後悔に襲われる。

(―――なんでこんなコートを着てきたんだろう)

 真っ赤なダッフルコート。ただでさえ若く見られがちな顔だが、これを着ているとますます童顔に見える気がする。出掛けにこれを選んでしまった自分を恨めしく思う。
 もともと、日本人にはあまり見られない自分の顔が好きではない。できるだけ目立たせないようにと思うから、普段から選ぶ服も地味な色合いのものが多い。そんななか、クリスマスプレゼントだという添え書きのなされたカードと共に送られてきたコートの華やかな赤は、明らかに部屋の中で浮いていた。送り主は弟の吾郎だ。箱を開けてはみたものの、礼を言うにはあまりにも派手過ぎる色合いに、なによりもまた喧嘩になるのではないかという躊躇いから、結局コートをハンガーにかけただけで、電話もできないままに数日が過ぎていた。心の隅に刺さる棘のようなコートを、今朝になって急に袖を通してみようと思ったのは―――
(そうだ、今日は外がひどく寒そうだったから)
 今日はこの冬一番の冷え込みになるでしょう。そう、マネキンのような笑顔と作り声で伝える天気予報の女性アナウンサーの言葉に、ついつい部屋の中で一番温かそうなものを探してしまったのだ。―――確かにこのコートは温かかった。けれど。
(やっぱりやめればよかった―――)
 足早に歩いてくる、おおかたこの辺りの店に勤めるホステスでもあろう韓国系の顔立ちの若い女性とすれ違う。彼女が下げている、どこかの百貨店のクリスマス仕様らしい紙袋と自分のコートの色がそっくりで、ますます憂鬱になった。これで緑色の荷物でも持てば、ますます歩くクリスマスプレゼントみたいに見えることだろう。
 しかし今から引き帰すわけにもコートを脱ぐわけにもいかず、結局は重い気分のままとぼとぼと歩き出すしかなく。おまけに今日呼び出された相手ときたら―――。

「やあ、葉山。今日はずいぶん珍しい格好してるじゃないか。あやうく人違いかと思うところだったよ」

 朝っぱらから場違いなくらいにやけににこやかな顔で洪が話しかけてくる。その息が酒臭い。
「僕のコートのことなんか、どうだっていいだろ。一体何時まで飲んでたんだ、おまえ。あんまり近づくな。酒臭い」
 そう言ってやると、洪はにやにやと笑って殊更に顔を近づけてきた。逆効果だったらしい。人が嫌がることをわざわざ喜んでする。こいつはそういうやつだった。
「あのね。クリスマスも近い、忘年会シーズン真っ只中。こんな時期に飲まなくてどうするわけ」
「よく言う。別にクリスチャンでもないくせに」
「僕は博愛主義者だからね。宗教で差別するほど心が狭くないんだ。人がめでたいと思ってる時には一緒に祝うことにしてるんだよ」
「―――最近ロシアとも接触が多いようだけど。それも博愛主義の賜物ってことかい」
「そうさ」 
 人類は皆兄弟なんだ。新しい年に向けて、友好関係を築くことも大事だと思ってね。そうは思わないかい葉山。白々しいことを胸に手をあててぬけぬけと言ってのける洪の姿に溜息が出る。つきあってられるか。
「博愛主義とかなんとか言う前に、その酒浸りの肝臓、取り出して水洗いした方がいいぞ。ロシアと友好関係築く前に死にたくなかったら」
 おや、ご忠告ありがとう。少し目を細めて笑う洪は、その本性を知らなかったらごく人の良さそうな顔をしている。今更自分が騙されるはずもないが。
「でも年末だからね。職場の同僚とかいろいろ飲む相手はいるんだよ。―――葉山はそんなことないわけ?」
 もっとも職場と言っても―――としばらく首をかしげて考える様子をしたかと思うと、やれやれと首をふった。
「確かにあんまり飲みたい相手が揃ってるとは言えないね」
 こいつに同情されるのも癪だったが、確かにその点だけは同感だった。エディや坂下など、一緒に酒を飲むなんて絶対考えたくない。―――一緒に飲むのが嫌な理由は、180度正反対だが。どっちにしても、うんざりする時間を過ごすのは目に見えている。
「どうやら一人寂しい年末っていう感じだね。―――どうしてもってことなら、僕がたまにはつきあってあげないこともないけど?」
「余計なお世話だ」
 心底気の毒そうに、同情したような顔を作ってみせる洪の台詞に腹が立った。それが顔や声に現れたらしい。
「ふーん、僕が二日酔いの頭を抱えてこんな吹きさらしのところで君を待っていたのは、僕がお願いしたからだっけ?」
 コートの懐から小さな茶封筒を取り出して、目の前でひらひらと振る。
「君が電話でお願いしたから、僕がこうやって調べてきてあげたのに―――」
 そう、こいつはこういう奴だった。わざわざ「お願い」というところを強調する洪の言葉にまたムカッと来たが、確かに電話で頼んだのは自分だ(いやいやながら、だが)。ここで資料を渡して貰わないと困るのは自分だ。不本意ながら、しょうがない。
「手間をかけて悪かった―――」
 ふん、とでも言いたげな顔で「全く君ときたら」とぼやきながら、洪は茶封筒を差し出した。
「こいつはひとつ貸しだからね」
「わかってる」
 こんな奴に借りを作るのは金輪際、願い下げだ。さっさと返さないとどんどん利子がついて膨らんでいくに違いない。
 
 ポケットに入れた茶封筒の感触を確かめて、駅に向かってきびすを返そうとしたとき、カランという小さな音がして、洪が立っていたすぐうしろの店のドアが開いた。出てきたのは、やけに図体の大きな男だった。きちんと躰を鍛えているのが一目でわかる―――それも虚仮脅しの見かけだけの筋肉ではなく、実用的なものだということを感じさせる。
「悪いね、パク。すぐ終わるからちょっと待ってて」
 洪がそう声をかけるのに、さっきからやられっぱなしで腹の底でくすぶっていた苛立ちが口を開かせる。
「なんだ、洪。また新しい愛人か」
 そう言うと、洪はさも心外だというように、片方の眉だけを釣り上げると、「そんなんじゃないよ」とはっきりと言った。

「そんなものと一緒にしないでよ―――パクは僕の相棒さ」

 そう言いきった時の洪の笑顔はやけに晴れやかで。逆にレベルの低い嫌味を言った自分が恥ずかしくなるようなものだった。返す言葉に窮している僕を尻目に「じゃあ僕らはもう行くから。貸しの件、忘れないでよ」と念を押すことは忘れず、洪は歩き出した。―――と思いきや、不意にくるっと向き直る。
「そのコート。あんたが選んだものじゃないんだろうけど、悪くないよ。似合ってる」
 選んだ人はちゃんとあんたのこと、見てるんだろ。それだけ言い残すと、くるっとまた背を向け、大きな男のあとを追うように洪はまた歩き出した。人通りのない道のど真ん中で一人取り残された僕は、さぞや間抜けな顔をしていたことだろう。

 洪たちとは反対側の地下鉄の駅に向かって歩きながら、さっきの言葉を思い出していた。洪は弟のことを知っている。どうせこのコートを送ってきたのが吾郎だということくらいは気付いているんだろう。
「似合ってる―――のかな」
 さっき自分の姿を見て嫌になったショーウィンドウの前に立ち止まり、もう一度自分の姿を見てみる。さっきよりしげしげと眺めてみれば、そんなに悪くもないのかなと思えるようになったのは、我ながら不思議だ。確かに冬の空の下、この赤い色はとても温かそうで、だから自分も今朝袖を通す気になったのだった。
 ニューハーフなどというものになってしまった弟が何を考えているのか、それは今でも正直理解できない。顔をあわせればつい喧嘩になってしまうのも―――喧嘩というよりは、一方的に僕が怒っているような気がするが―――その辺りに原因があるような気がする。けれど、弟はそれでちゃんと自分の生活費を稼いでいるのだ。こうやって冷たい兄にもクリスマスプレゼントを選んで送ってくる。周囲を疑うばかりの仕事をしている自分に、それだけの気遣いができているとは思えない。
「電話―――してみるかな」
 まずは電話をして、近況を―――こちらには話すほどの変化もないので―――向こうの言うことを聞いて。このコートについても、ちゃんと礼を言わなければ。それでたまには一緒に食事でもしようかと―――それくらいのことは言ってもいいんじゃないだろうか。弟が選んだ生き方が理解できないとは言え、それでもたった一人の肉親であることには違いないのだから。
(―――吾郎と予定がついたら、このコートを着て出かけよう)
 そう思いながら歩き出そうとした時、ふとショーウィンドウにほどこされたディスプレイに目を止める。色とりどりの華やかなモール。そしてスプレーで白く描き出されたトナカイやサンタクロースのシルエットに混じって、大きく書かれた定番の文字。
(そうだ、電話をしたらまずこれを言わないと)

“Merry X’mas”

【Fin】


クリスマス前に出来あがってたのに、サイトが全然出来あがらないために時期を逸してしまった間抜けな代物。
(でも一年間放っとくのも悔しいのでアップする潔くない私)

電車の中で足を踏まれるようなどんくさい人は葉山だろうと思って思いついた話。

五條瑛の『夢の中の魚』に出てくる、葉山のコートの話です。
本当は着て洪と会うのはもっとあとだろうと思っているのですが、
これを着て弟と二人で『ガイラ』を観に行ったということで。

うちの洪とパクは例によって仲のいい相棒です。このコンビはとても好き。
そしてうちのエディと葉山と坂下も(仲はよくないけど)やっぱり単なる同僚なのでした…。

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